| まえがき
その女性は切々と語り続けた。私は身じろぎもせず、その真剣な離婚願望の訴えに耳を傾けている。まるでゲートに身を潜め、息を殺してスタートを待つ馬のように。
でも本当は、半分も聞いていないのだ。向き合った彼女のブラウスの隙間から、もう少しで、オッパイが見えかかっている。
このうえは、相手に気づかれることなく、こちらの位置を少しずつ移動し、話し終えた彼女が顔をあげる頃には、ほぼ完全な観察記録の入手に成功という段取りに忙しい。まずは出遅れることなくすんなり好位についた。
向う正面にあたる第2段階は、彼女の全発言に向けた控え目で、しかし全面的という支持表明が行なわねばならぬ。
「そうですね、かつてニーチェは『軍人は過去の戦争を闘う』といいました。でもあなたには、あなた自身の明日と闘ってほしいと願っています」
ニーチェが聞けば、俺一度もそんなこといった覚えはねえぞと怒るだろう。別にしゃべるのはアインシュタインでも、ベートーベンでもかまやしない。ただ芦屋雁之助がいってましたじゃ、ありがたくないんだよ。
展開は、3〜4コーナー中間というあたり。もったまま、手応えは十分だ。
俺の返事は、結論にも、討論にもなっていないけれど、満足に相手の話は聞いてはおらず、第一その話は翻訳すると、
「いいからサッサと別れて、とりあえず明日の晩は俺と1回……」
ということなのだから、トンチンカンはやむを得ない。いよいよ4角出口、レースは勝負どころに差しかかっている。
ここでは可能な限り、彼女の人生の苦痛と重荷を共有してしまった者の沈黙を示しながら、静かにコーヒー屋の勘定書きを手元に引き寄せて逃げ切り態勢に入る。
これで坂を上って後続に8馬身。ゴールイン、いやベッドインは目の前だ。
大差勝ちする錦糸町ラブホテル・ステークス、明日のガッツポーズは右手にしようか、左手にしようか、今日のところはまず両手でバンザイでもしておこう。
しかし、レースには常に落馬の危険がつきまとっている。立ち上がった彼女は可愛いらしくはにかんで、こういったのだ。
「でも私、まだ結婚したことないんです」
競馬が人生に似ているのではない。人の一生こそが競馬に似ているのだ。仕方ないからこの台詞もニーチェがいったことにしとこう。いやサルトルがいいかな? でもサルトルって誰だっけ。
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