いのちを守り「災後」を生きるために くらしの防災

日本は災害の多い国です。地震、台風、洪水、竜巻、津波、山崩れ、落雷、豪雨、暴風など、本当にあらゆる災害がいつ、どこで起きても不思議はないくらいです。
日本の地勢がそのようになっているからですが、この日本だからこそ、地球上のこの一打からこそ、四季があり豊かな水があるのです。そこに住み続けた日本人はこの災害と共に暮らして生きてきました。
大きな災害にあった時、それに大きく抵抗するのではなく、その災害の中をどう生き延びるか、どうその被害を少なくすることができるかを考え抜いて、しなやかに知恵を出して生きてきたのです。大きな災害の前に人は無力です。圧倒的な力に敵うはずはないのです。それぞれの地でそれぞれの暮らしにあった方法で、at your own risk で乗り越えてきました。それは暮らしに根ざしたものでした。数千年に一度のものもあり、数百年単位で起きるものがあるかもしれないけれど、短い人の命の中でよりよく生きる方法を工夫して、それを後世に伝えています。津波の地域では、「ここより下に家を建てるな」という石碑を立てたり、洪水が起こると思われる地域では軒先に船を吊しておいたり、津波の時は「てんでんご」で逃げるようにと言い伝えたりしました。

私自身の体験としては、何の備えもなく阪神淡路大震災にあいました。関西には大きな地震は来ないと言われていて、そう思いこんでいたからです。歴史を紐解けば、大きな地震が何度も起きていろいろな古文書にも書き記されているのに、身近な先祖が生きていた時代が平和だったので記憶が薄れていったのでしょう。
生活に便利な場所にあった実家は、ドミノのように倒れて来た家に倒されてしまいました。
そこに一人暮らしをしていた母は、80歳を超えて自分の生きていた証の財産を一瞬にして失いました。震災後に母に建てたバリアフリーの家の10畳の中に納まるものだけが残ったのです。当時、私は48歳でしたから、無我夢中で暮らしを再建することができました。でも、人生の終盤期の母にとっては、もう一度依然と同じように暮らすためにはもう時間がありませんでした。でも、母は失ったものを嘆くのではなく、100歳まで母なりに穏やかな暮らしを送り、本当に天寿を全うして苦しむことなくこの世を去りました。
何の備えもなく起こった阪神淡路大震災で私たち家族も大きな被害にあいました。一番の危機が娘を襲いました。あの凄まじい揺れによって、備え付けの戸棚の中の物がすべて娘の体にのしかかり、息が止まってしまったのです。本当に偶然にも、他の家族には何事もなく無事で、娘はすぐに心肺蘇生術をすることができて、後遺症もなく助かりました。これは、震災の2年前に兵庫県が行っていた心肺蘇生2万人運動に参加し、近所の小学校で実際の訓練を受けていたからこそとっさにできたことです。
その娘が震災20年目の1月17日に産気づき18日の未明に女児を出産しました。母から私、娘から孫と命がつながった瞬間でした。災害に何の備えも考えていなかったけれど、何にもない時に心肺蘇生の実習をしていたからこその結果です。

大きな災害が来たからと言って、急に賢くなんてなりません。いつもの暮らしの延長線上にあるのが人生なのです。大きな災害にあったとしても、命を失わなければ何とでもなります。とにかく、いろいろな困難はあったとしても、命が助かることを最優先にして災害を乗り切りましょう。生きてさえいれば、災後の人生はあるのです。物は一時の通過するもの、無くなった時はそんな時として受け入れましょう。
大きな災害で失うのは日々の平穏な暮らし、その暮らしを取り戻すのが復興です。橋ができても建物が再建されても、日々の暮らしがみんなもとにもどらなければ、それは復興とはいえません。いつものように買い物に行き、いつものようにごはんを作る、ゆっくりお風呂に入る暮らしになることが、災害に負けないで生きることなのです。
災害は一日か二日、ほんの短い時間です。でも、そこに生きる人にとっては、失われた日常をとりもどすための長い時間が必要なのです。とりもどすべき日常であるとすれば、何を備えたらよいかは日常を基準に考えればよいのです。日常に全く必要を感じないものは実は災害時にもいらないものであることが多いのです。
「備えは日常にあり」、今の暮らしの中での防災、減災こそが大事だということが、阪神淡路大震災の後の暮らしの中で分かってきました。本当に手痛い試練ではありましたが、いきなり放り込まれた状態の中で命が守れる、命を守る知恵を学びました。その色々を、来るべき災害に生かして、みんなで助かりたいのです。この本に書いてあることは、机上の空論ではなく、大きな災害に遭遇して初めて分かったこと。それは、日本に住む人々にとって、きっと役立つものであり、役立てて欲しいと願っています。
そして、災害によってあとの人生の歩みが止まってしまうこともあるのです。「もし、私があの時にあの子をあの場所に寝かせなければ死なずにすんだのに」「あの時、手を離さなければ」とどうしようもないことであったとしても後悔の思いが、災後生きられなくしてしまうのです。災害は本当に理不尽なものです。なぜうちなの? なぜあの子なの? と決して納得のゆくものではありません。
でも、それを乗り越えて生きていくために、「今、自分のできることはみんなした」と思うことができれば、災害の理不尽さにも何とか折り合いをつけることもできるのです。どうぞ、そのためにこの本に書いていることの一つだけでも実際に備えてみてください。
あなたの暮らしの中に、ちょっとだけでも、命を助けるすべを取り入れてくださることを願っています。

阪神淡路大震災後22年後の神戸にて
坂本廣子

「そのままの私」からはじめる坐禅●はじめに

はじめに
~マインドフルネスに少し疲れたあなたへ

 マインドフルネスという言葉をキーワードにした講座や教室、研修や著作が溢れています。また昨今では、宗教色を取り除いた瞑想という枠を超えて、マインドフルネスストレス低減法を皮切りに、心理学や医療の分野にも広く応用されています。
 その風潮のせいなのか、「坐禅はマインドフルネスなのですか」と問われることが多くなりました。また、坐禅会においても、坐禅にマインドフルネスが掲げた効果を求めて参加される方が多くなったように感じています。

 私はマインドフルネスに本格的に取り組んだことはありません。数度のセミナーに参加した程度ですが、呼吸や姿勢、「今・ここ」に焦点をあてることには親しみを感じました。
 しかしながら、セミナーの度に示された正解や目標、たとえばマインドフルネスをすることで「朝から頭がスッキリしてやる気がわいてくる、仕事の効率があがり成果を出せる、いつも苦手な人との会話が楽に出来る、周りの意見に振り回されない心が保てる、閃きや直感がさえて強靭な思考が手に入る」というものには疑問を抱きました。
「そんな素晴らしいことが短期間にできるならば、世界はアッという間に平和になるだろう」と。

 今の私には、マインドフルネスと坐禅とを対比することはできません。
ですから、「坐禅はマインドフルネスなのですか」と問われた時には、「どうなのでしょうか」とことわって、二つの問答を紹介しています。

 まず一つ目は、中国に禅を伝えた達磨大師と梁(りょう)の武帝との問答です。
「私はたくさんのお寺を建立したり多くの僧侶を出家させたり、また多額の寄進をしておりますがどういう御利益はあるのでしょうか」と武帝が問いました。
達磨大師は応えました。
「無功徳」

 「無功徳」とは、武帝が期待するとろの御利益なんかありはしないと断じたのです。
 自分の善行を誉めてもらえると期待した武帝には、達磨大師の態度は想定外でした。そればかりか、自己の存在を全否定されたような言葉に怒りがこみ上げてきたことでしょう。ですから、「無功徳」の意味を受け取ることができませんでした。

 達磨大師は武帝のことを馬鹿にしたのではありません。いえむしろ、そのような奇特な方なればこそと慮り、「功徳が有る無いの世界」から武帝を釣り上げようとされたのです。
 その世界では、有ることを求めれば際限がありません。無いことは有ることといつも比較されてしまいます。そんな比較対立の世界には、安心(あんじん)、即ち、本当の心の安らぎはないのです。

二つ目の問答は、武帝との問答から面壁九年、達磨大師にその法を嗣ぐことになる慧可大師との問答です。
「私は不安でなりません。どうか、この心を鎮めてください」と慧可大師が問いました。
すると、達磨大師は応えました。「ならば、その心とやらを持っておいで」
慧可大師は、心を探します。けれども、見つけることができませんでした。
慧可大師は言いました。
「心を探しましたが、心を掴み取ることはできません」
達磨大師は応えました。
「今、あなたの不安とやらを鎮めたよ」

 私たちもまた、実態のない心を掴み取ろうとして走り回ってはいないでしょうか。自分の心さえも自由にできないからと悩んでいないでしょうか。「心を整理しなければならない」「心を楽にしなければならない」と騒ぎ立てていないでしょうか。
 実は「心は自分の思い通りにすることができる」というその態度こそが、迷いの出発点なのです。

 達磨大師は「今、あなたの不安とやらを鎮めたよ」と示すことで、「実態のないものに苦しめられている自分というものすら無い」ことまで慧可大師に伝えました。そして、「自分が無いというところの自分」をあきらかにする道こそに安心があるのだ、と。

 最近「マインドフルネス難民」という言葉があることを知りました。
それは、今ある症状や現状を改善しようとマインドフルネスに取り組んだのに、かえって悪化させたり、より閉塞感を抱くことになったりした人たちが、自分に合致する「人、場所、方法」を求めて彷徨っている状態を指すそうです。

 真面目な人ほど、マインドフルネスで指示された課題ができたか否かに拘り、目に見えた効果が現れないことに悩んでしまうのでしょう。
 けれども、強いメンタル、折れない心、心の筋トレがそんなに必要なのでしょうか。果たしてそんなにあなたの心は弱いのでしょうか。

 もしかしたらあなたはマインドフルネスに少し疲れているかもしれません。「自分なんか無理」と坐禅を遠ざけてきたかもしれません。
 けれども、坐禅は何かを片付けてから、何かを用意してからではない、「そのままの自分」からはじめることができるのです。

 どんな「今・ここ」であれ、あなたは坐禅と出会いました。

 求めて得たものはいつか必ず失います。
 求めないという穏やかな世界があることを、坐禅はあなたに示してくれるはずです。
 まず「効果や効能を求め逸(はや)る心」から少し離れてみましょう。

大童法慧

3つの数字のどれかが必ず来る!黄金の鉄板出目2017年1月~6月編

 『黄金の鉄板出目』で通算5作目(特別レース編1冊含む)となる。手前味噌だが、3つの馬番、というのが絶妙なラインなのかもしれない。出目やサインを嫌う読者の皆さまとは相容れない本書だが、出目攻略を楽しんでいるあなたとはお互い、毎週の重賞でこの3つの馬番がどうしても気になってしまう。枠番では会心の的中とは言えない。至極簡単、3連単、3連複も獲れるのではないかと夢を追う上位3つの馬番が本書のウリである。
 もう説明も不要かと思うが、本書の使い方は簡単だ。すでに提示されている3つの馬番、あるいは掲載されているレース名からご自身で調べてもらう3つの馬番を馬券に絡め、的中率&回収率を大幅にアップさせようというものだ。やはり、本書の最大の活用法は、“自身の予想では買えない穴馬”に目を配ることができる点だろう。
 我々、特捜班も毎週この3つの馬番で勝負し、一喜一憂している。本気で全レース的中を願っているからワクワクできる。ロマンとしての競馬も、ギャンブルとしての馬券も、未来に夢を託すことなのだから。