宋美玄

「わぁ、かわいい赤ちゃんね。母乳で育てているの?」
 電車で隣に座った人からの何気ない言葉。でも、思い描いていたような母乳育児ができていないお母さんは傷ついてしまう。こういう場面は少なくないでしょう。
 母乳こそ愛情の証、母乳で育つと健康でかしこい子になる……、そう信じて善意で母乳育児をすすめてくる周囲の人たち。一方、赤ちゃんが生まれたら母乳で育てたいと思っていたけれど、出産という大仕事を終えたボロボロの身体で育児や家事に忙しく、現実とのギャップに苦しむお母さんたち。両者のあいだには、とても大きな溝があります。

 産婦人科医を10年以上もやってから子どもを産んだ私も、母乳については理想と現実のギャップに苦しんだ母のひとりです。妊娠から出産に至るまではトラブルもあったけれど、医師としての経験を積んでいたので、何ひとつ想定外な出来事はありませんでした。
 でも、母乳育児に足を踏み入れてから、この分野については何もわかっていなかったことに気づいたのです。母乳自体に関する知識もそうですが、なんといっても母乳の話題は非常にデリケートなものだということを理解していませんでした。今までかかわった患者さんたちに、「ごめんなさい」と謝りたい気持ちです。
 そうして母乳育児について調べてみると、いつのまにか情報発信者の価値観に染められそうになるのを感じました。
 母乳育児の情報には、「母乳って素晴らしい! 粉ミルクなんて必要なし」と母乳を過大評価したものが多いのです。一方、正反対に「母乳も粉ミルクも変わらない」と、母乳を過小評価したものもあります。いずれにせよ、情報発信者の価値観を押し付けられることなく、純粋に母乳についての知識だけを得ることはとても難しいとわかりました。
 私がブログに母乳のことを書くたび、たくさんのお母さんたちがつらかったことをコメント欄に書いてくれます。多くは、周囲の医療従事者(主に助産師)や自分の親、義理の親、夫、友人たちから母乳についての価値観を押しつけられた、耐えられないような努力を強いられたというものです。あまりにもたくさんの方からコメントをいただいたので、母乳に関する両極端な意見を、私は“おっぱい右翼”と“おっぱい左翼”と名づけました。

“おっぱい右翼”
 母乳は素晴らしい、母乳こそ愛である……などという、おっぱい至上主義。努力しても母乳育児がうまくいかない人もいる、なんらかの事情で母乳育児をできない人もいるということが頭から抜け落ちがち。「母乳育児中は疲れにくい」「眠れなくても大丈夫」「母乳はラク」などと励ますことが、ときにお母さんたちを追いつめることを知りません。また、「人間は哺乳類なのだから」などと言う人も。それは「環境に適応できない者は滅びる」という、ある種の優生思想につながることに気づいていないのも特徴のひとつです。

“おっぱい左翼”
 初乳さえあげれば母乳も粉ミルクも一緒、粉ミルクは栄養たっぷり、粉ミルクなら父親も平等に育児に参加できるし、母乳にこだわるのは意味がない……などという合理主義。多くのお母さんが「できれば母乳で育てたい」という感情を自然と抱いていることがあまり理解できておらず、情が通じにくいという特徴があります。

 いずれも基本的に善意に満ちているため、抗議しにくいところが難点。そして、どちらも極端すぎます。母乳育児に関しては、バランスよく情報発信している本やブログなどは少ないというよりも、ほとんどないのです。

 そこで、本書には、母乳でも粉ミルクでも混合でも、授乳中のすべてのお母さんたちにお伝えしたい情報を載せました。できるだけ具体的ですぐに役に立つ知識を、なるべく中立な立場で、文献などの根拠をつけてつづっていきますから、参考にしていただけると幸いです。

   
                              
森戸やすみ

 小児科医である私は、一歳児健診も担当します。その健診で、お母さんたちに「母乳と粉ミルク、離乳食は、今どんなふうにあげていますか?」と聞くと、次のような答えが返ってくることが多々あります。

「母乳と離乳食です。母乳は、もうやめなくちゃと思っているんですけど」 

「残念なんですが、粉ミルクと離乳食です」

 前者に、母乳は薄くならないこと、WHOは2歳まではあげたほうがいいと言っていることを伝えると驚かれます。「子どもが1歳を過ぎると、母乳は栄養がなくなる」とか「母乳をいつまでもあげていると虫歯になる」といったことを周囲から言われていたそうです。
 さらには「美味しい母乳をつくるには、あっさりとした和食を食べないと」「授乳中は好きなものを食べてはダメ」「高カロリーのものを食べると、乳腺炎になる」など、全く根拠のない都市伝説を聞かされている人もいます。
 一方、後者には「粉ミルクをあげていると発達が悪くなると聞いて」「肥満児になるんですか?」などと聞かれます。そのたびに母乳じゃないからといって、発達が遅れたり、肥満児になったりすることはないと伝えます。「母乳が一番いい」「母乳だとIQが高くなる」「粉ミルクは太る」といったようなことを周囲に言われるからでしょう。
 今では誰だって母乳がよいものであることは知っています。しかし、粉ミルクを足したり、粉ミルクだけで育てたりすることは、決して悪いことではありません。きちんと管理されているかどうかもわからない母乳をインターネットで購入するほど、母乳不足に焦ったり、母乳育児ができないことを悲観的に捉えたりするお母さんもいるということを私たちは知らなくてはなりません。

 こうして無駄に大きな重圧をかけられるから、母親は子どもに対して罪悪感を持ちがちです。「母乳が思うように出なかったのは、私が悪かったから」と思う人もいるし、それとは逆に「いつまでも母乳をあげて悪かった。早くやめなくちゃいけなかったのに」と思う人もいます。周囲の人たちが母親に望む理想像には無理があって、おまけに人によって言うことが違います。これではキリがありません。

 産婦人科専門医の宋美玄先生と小児科専門医の私、編集の大西さんの3人は、そういった現状について、とことん話し合いました。あまりに行きすぎた母乳礼賛も、母乳育児中の母親に都市伝説を押しつけるのも、考えなしに粉ミルク育児をすすめるのも違う、と。そして、粉ミルクが流行して母乳よりもいいと思われていた時代は過ぎ、母乳の素晴らしさが浸透した今こそ、両者について冷静に評価をする時期だと考えました。

 そこで本書の執筆や編集において、私たちは現在わかっている医学的に確かな情報を基本によく聞く都市伝説を否定するとともに、とにかく偏らないことを心がけました。母乳育児をやみくもに押しつけるのではなく、反対に考えなく粉ミルクをすすめるのでもなく、“中道”な考え方を示せているとしたら、とても画期的な本になったのではないかと思います。

 赤ちゃんが母乳や粉ミルクを飲む期間は、過ぎてしまえばあっという間のこと。初めは誰もが戸惑い、少なからず格闘する授乳期に、みなさんと大切な赤ちゃんがなるべく笑顔で楽しく過ごせることを願っています。