1980年代末から90年代にかけて、アメリカ合衆国を中心にAC(アダルト・チルドレン)という考え方の一大ブームが起こりました。
 そのきっかけのひとつは、1992年に世界中が注目したアメリカの大統領選で、民主党のビル・クリントン候補が「自分はACだ」と自らの過酷な生育体験を語ったこと。彼の母の二度目の結婚相手が酒乱で、その養父にピストルで狙撃されて弾が頬をかすめたり、母を保護しながら戸外で一夜を過ごしたりした過酷な児童期について彼は率直に語り、有権者の支持を得ました。

 本書で詳しく述べたように、アダルト・チルドレンとは”子どもみたいに未成熟な心性を持った成人”を意味する言葉ではありません。”家族という闇の中で、世間に知られることもなく成人になった児童虐待の被害者たち”のことです。
 彼らは子どもっぽいどころか、子どもの頃から”危険な親の機嫌を気にする子”であったり、”誰かの世話を焼こうとする大人びた子ども”であったりすることのほうが多く、「偽親」と呼ばれたりします。成人後は、他人による評価に過敏な「演技的善人」として生き、その嘘くささや空虚感に自ら辟易していたりするので、機会があれば精神科を訪れるのです。
 しかし、ACというのは精神科医にとっても難しい症例です。何せ伝統的な診断分類に合致しませんから。特に悩まされるのは彼らに独特の「将来の縮小感(将来なんかないという感覚)」、「利ううなく出没する絶望感と希死念慮」、「思わぬところで吹き出す怒り」などです。当事者の多くも医療には期待せず、自己治療として飲酒や非合法薬の摂取、あるいはギャンブルなどのアディクション(嗜癖)に救いを求めたりします。
 このような症状が出て、社会問題になって初めて精神科の治療対象になりますが、おおかたの精神科医にとって彼らはBPD(境界性人格障害)などのパーソナリティーの偏りを持った人、従って治療対象にならない人として扱われがちです。
 そこで彼らはACA(アダルト・チルドレン・アノニマス)のような自助グループに集まろうとします。ただ、そうした仲間に出会えるのは、ごく一部の人々。彼らの多くは各人各様、自分なりの安定を求めて苦闘しています。例えば、夏目漱石こと夏目金之助はそうした人々のひとりであったのではないでしょうか。
 アメリカのACブームは日本にも流入して、1990年代後半からブームらしきものが生まれました。ただし、それは一般社会と非プロの間においてのみであり、精神医学だの臨床心理学だの所謂”アカデミズム”の世界からは完全に無視されました。おかしな話です。ACという用語は、その一部である「共依存」の概念を中心にヨーロッパの社会哲学者たちの性愛論(例えばアンソニー・ギデンズ『親密性の変容』而立書房)に大きな刺激を与えましたし、また、現在のアメリカ文化をACや共依存の概念と無関係に理解しようとしても無理というほどのものですから。
 本書で取り上げた「毒親(Toxic Parents)」という概念は、AC論からの派生物のひとつです。ACはもともと、アルコール嗜癖などの問題を抱えた親たちからの受難ということを前提にしていますから、毒親論の登場は当然のことでした。そして、その単純明解さ(わかりやすさ)もあって、AC論をしのぐほどのブームになりました。
 最初に移入(翻訳)されたスーザン・フォワードの『毒になる親(原題はToxic Parents)』はバランスのとれた良書で、この概念が日本に浸透するのに最適だったと思います。しかし、一方でM・スコット・ペックの『平気でうそをつく人たち(原題はPeople of the lie)』は本来、福音主義(エヴァンジェリアン:聖書を事実そのものと説く、反進化論的な保守派)的な宗教書で、それは翻訳されなかった後半の部分にある「エクソシズム(悪魔払い)」の記述を見ていただければはっきりするのですが、邦訳されたところだけ読めば「邪悪な人(悪魔に憑かれた精神療法の埒外にある人)」をテーマにしていることがわからず、そのまま”毒親糾弾ブーム”の中の有名な一冊になってしまったのは残念なことでした。
 いずれにせよ、玉石混淆な翻訳本を基礎に、”被害児童として苦労した私”の体験を述べたたくさんの本(自費出版を含む)が「毒親本」と呼ばれる一ジャンルとして定着しているのが現状です。

 AC論が”毒親糾弾ブーム”というところに収束してしまった理由はなんだろうか――という、かねてからの疑問が、私の執筆の動機になりました。かといって本書を単なる「反毒親論」にはしなかったつもりです。
 「毒親」という概念には、力強いメリットがあります。既述のように善悪二分論だからわかりやすい。そのうえ、AC論のような反精神療法的な「毒」がないから、セラピストと呼ばれる臨床心理士たちが解説本を書きやすい。さらに重要なことは、「AC―毒親論」には、核家族を聖化する近代市民社会のノーテンキな”家族は天国”論への解毒剤的な意味があることです。そこ(家庭)は、その中の弱者(子どもと老人)にとって地獄になり得ますから。
 毒親論のデメリットは、”これからどうすればいいのか”がおざなりにしか語られてないことです。テレビに始終出てくるような有名女優が書いた本の場合は、書き手の現状そのものが未来を語っているような錯覚を与えますが、読む側がそれを実行できるような普遍性がない。AC論のように専門家を排除して自助プログラム(具体的にはアノニマス・グループの12ステップ)を徹底するという方法論もない。
 わざわざ本書を出した理由は、ここにあります。過食症だ、ギャンブル依存だ、ジャンキーだ、外へ出られない、死にたい……などと愚痴っておられるみなさん、「ひとこと言わせていただいていいですか?」というのが本書です。
 まず、みなさんが抱えている症状行動(病気のように見える行為)は自らを救っているという視点を持ってください。そして、それらの行動が誰かのせいだという「他罰論」から逃れてください。「毒親論」も含めて、他罰論は自罰感情の裏返しに過ぎません。そして自罰論こそ諸悪の根源です。他罰でも自罰でもない視点から自分の現状を見ると、何かが足りないことに気づきませんか。足りないのは”自分はどこへ向かうのか”というゴール設定です。いずれは死ぬ、それはわかるが、それまでの間に何をするのかが見えていない。
 で、このゴール設定のお役に立とうというのが、本書です。ゴールには短期も、中期も長期もありますが、超短期というのもあって、それは”現状をそのまま肯定する”ということです。ひきこもっているあなた、朝起きられないあなた、それらを「うつ病」だの「双極性障害」だのとわかったような病名や技術用語で”他人事”にしないでください。そこをなんとかしようとすることから始まる出会いが、本当のゴールを教えてくれるかもしれないではありませんか。

 本書は、当初『毒親って言うな!』というタイトルにしようと思っていました。それが、書いているうちに今のタイトルに変わりました。『「毒親」の子どもたち』というのは、自身を健全だと思って毎日を過ごしている人たちをも含めた全ての人です。この本がみなさんのお役に立てるよう願っています。
 本書の刊行については、メタモル出版の大西真生さんに多くのご心労をおかけしました。辛抱強く校了を待っていただいたことに心から感謝します。
  2015年2月 斎藤 学